【映画】容疑者Xの献身
かつて天才数学者と呼ばれた石神(堤真一)は、その頭脳を活かせる場所がなく、不本意ながらも高校教師として暮らす。人と関わることが苦手で、恋愛にも縁がない。そんな石神にとって、アパートの隣に住む花岡靖子(松雪泰子)とその娘の暮らしが心の支えだった。石神は壁から漏れ聞こえる母子の声を迷惑とも思わず、むしろ微笑ましく感じて、いつしか母親に好意を寄せる。しかし、そんな母子に災難が降りかかる。別れたはずの暴力夫が現れ、抵抗する母子は夫を殺してしまった。物音でそれを察知した石神は、母子を助けるために自身の才能のすべてを発揮する。完全犯罪を成し遂げようとする石神の前に立ちふさがった人物とは、かつての大学で同期であり、やはり天才と呼ばれた準教授、湯川(福山)だった……。
ずいぶん前に観たけど、感想を書くとネタバレになりそうだった。そろそろ書いちゃおうかな、と。
「読んでから観るか、観てから読むか」とは角川書店が映画参入時に作った銘コピーです。で、僕は断然「観てから読む派」です。小説を映画化すると、どうしても情報量は減ってしまう。だから「読んでから観る」と、描写しきれなかった省略部分が気になるし、省略された場面が自分にとって好印象だともうダメ。逆に「観てから読む」と、先入観なしで映画を楽しめて、映画で??と思ったところは読んで納得できる。情報量が追加されるから、両方楽しめるわけで。
さて『容疑者Xの献身』では、不本意ながら「読んでから観る」パターンになってしまいました。ミステリー小説を読んだあとで映画版を観るってのはつらいよ。トリックが判っちゃってるわけだし。ストーリーを純粋に楽しめない。それじゃなんで観るかっていうと、あの役を、あの役者さんがどう演じるんだろう、トリックはどんな風に映像処理するんだろう、って、映像オタク的な興味になっちゃう。映像の作り手に対しては、そういう観客がいっぱい居ることを念頭において作ってほしいと思うんだ。
その意味で、この映画はダメだったなあ。ドラマ版は面白かったのに惜しい。
ドラマ版は「読んでから観る」でも楽しめたんですよ。内海薫という新キャラを投入して視点を変えたことで、軽い恋愛ドラマっぽい要素も加わったる。あの滑稽な数式を書くシーンも"スーパーヒーローの変身場面"に通じるギャグとして楽しめた。「出たぁ〜」って思うよね。いつのまにか楽しみになってた。そしてなにより、小説では説明がくどい化学トリックを実写で解りやすく見せてくれた。最終回はドッチラケだったけど。
映画では、そうしたドラマの良かった要素がなくなっちゃったんですよ。
石神vs湯川が主眼だから内海の存在は薄くなってしまった。数式は書かない。あのトリックじゃ書けないと思うけど、それでも書いてほしかった。スケジュール表でもいいから。そして今回は化学トリックではない。これは原作がそうだから仕方ないんだけど。結局、いちばん面白かったシーンは冒頭の実験のところでした。あちゃー。
それでも僕は最後まで期待した。何を期待していたかと言うと、東野イズムとでも言いましょうか、ラストで観客をビックリさせる仕掛けがあると思ったから。東野圭吾の小説は文庫版のみ全部読みました。推理モノ、ファンタジーなどいろいろあるんだけど、共通する特徴は「ラスト10ページでビックリさせてくれる」ことなんです。巧妙に伏線を張っていて、最後に「あっ、そうだったのか!」と思わせる。もちろん『容疑者Xの献身』のトリックもそうなんだけど、映画では淡々と進んじゃって判り難いかも。逆に原作を知っている人にとっては、浮浪者がいなくなってた瞬間に伏線だとわかる。でもそれを判ったところで別に面白くない。僕の期待は「既読者もビックリするような仕掛けがきっとある」だった。
東野圭吾作品を好きな映画化するなら、まだ読んでいない人も、すでに読んだ人もビックリする仕掛けを用意して、その意味で東野イズムを踏襲すべきでしょう。石神が惚れていたのは実は娘のほうだった、とか、実は娘が最初から石神に手を貸していた、とか、原作を超えてもいいからビックリさせてほしかった。それがないから、淡々と原作をなぞるだけの映像化になってしまった。これがとても残念。
しかも、ストーリーが原作に忠実になっているかと思えば、石神は堤真一なんてカッコイイ男を持ってきちゃう。堤真一は好きな役者さんだけど、石神役は原作どおり、非モテ系の性格俳優がいいんです。オレとか(笑)。いや、そうだな、裸の大将で好演しているドランクドラゴンの塚地さんとか、田口浩正さんが適役だと思うんだ。田口さんおススメ。彼は"お人よしなデブ役"が多いけど、あの人の眼鏡の奥には知的な光がある。なんで彼にしなかったんだろう。
ストーリーを満遍なくなぞっただけだから、映画としての面白みはない。文句ばかり書いても無責任だから、自分なりのアイデアを書いておくと、いっそ誰か一人の視点に思いっきり寄っちゃったら面白かったんじゃないか。例えば花岡靖子の視点で、殺人を犯した驚きと恐怖、石神の申し出にすがりつつ、石神の意図を測りかねる恐怖。そして石神の純愛を受け止めるまでの心境の変化を追っていく。そうすると、ラストの号泣する場面で感情移入できたと思う。
あるいは石神視点でもいい。思慕、かなわぬ思い、殺人と言う悲劇に対して、それを花岡へ近づくチャンスだと思う邪心とそれへの迷い。この場合はトリックをすべて見せちゃうかもしれないけれど、その成功と失脚を描いて観客を誘えば観客をドキドキさせられる。そして彼女への思いが通じた瞬間、自分の策略が崩壊する。その矛盾。ここまでくれば、どうして石神が泣いたか判る。嬉しさと悔しさが同時に訪れて感情を制御できなくなったとき、始めて彼の知性は感情に負けちゃうんです。僕はこっちを観たい。
真実と友情の狭間に揺れる湯川視点でもいいし、今度ばかりは化学ではなく人情で解決してみせる内海視点でもいい。誰かに思いきり寄っちゃったほうがよかった。そうすれば、何年か後に、別の視点で再映画化ができたはず。原作は直木賞作品ですからね。ただのミステリーではなく、文芸的に評価されているわけで、映像化の成功は作り手の思い入れひとつなんだよね。
そこでスタッフを見ると、脚本は『HERO』や『救命救急24時』の福田靖氏、監督は『白い巨塔』や『美女か野獣』の西谷弘氏。かなり優秀なんですよ。福田氏はNHKで東野圭吾のトキオのドラマ脚本を担当しています。むしろ東野作品をわかってる人です。たぶん、この二人が作った当初のプロットに対して、わかってない偉い人が余計なことを言ったんだろうな。なんて邪推したりして。
そんなわけで、東野圭吾ファンはがっかりしちゃう映画です。まだ見ていないならレンタルDVDでいいんじゃないかな。その時は、映画公開前日に放送された2時間ドラマ『ガリレオΦ、エピソードゼロ』のDVD版を先に見ておきましょう。ラストが映画とリンクしています。この楽しみを拾っておかないと、他に楽しむところが少ないので。
さて『容疑者Xの献身』では、不本意ながら「読んでから観る」パターンになってしまいました。ミステリー小説を読んだあとで映画版を観るってのはつらいよ。トリックが判っちゃってるわけだし。ストーリーを純粋に楽しめない。それじゃなんで観るかっていうと、あの役を、あの役者さんがどう演じるんだろう、トリックはどんな風に映像処理するんだろう、って、映像オタク的な興味になっちゃう。映像の作り手に対しては、そういう観客がいっぱい居ることを念頭において作ってほしいと思うんだ。
その意味で、この映画はダメだったなあ。ドラマ版は面白かったのに惜しい。
ドラマ版は「読んでから観る」でも楽しめたんですよ。内海薫という新キャラを投入して視点を変えたことで、軽い恋愛ドラマっぽい要素も加わったる。あの滑稽な数式を書くシーンも"スーパーヒーローの変身場面"に通じるギャグとして楽しめた。「出たぁ〜」って思うよね。いつのまにか楽しみになってた。そしてなにより、小説では説明がくどい化学トリックを実写で解りやすく見せてくれた。最終回はドッチラケだったけど。
映画では、そうしたドラマの良かった要素がなくなっちゃったんですよ。
石神vs湯川が主眼だから内海の存在は薄くなってしまった。数式は書かない。あのトリックじゃ書けないと思うけど、それでも書いてほしかった。スケジュール表でもいいから。そして今回は化学トリックではない。これは原作がそうだから仕方ないんだけど。結局、いちばん面白かったシーンは冒頭の実験のところでした。あちゃー。
それでも僕は最後まで期待した。何を期待していたかと言うと、東野イズムとでも言いましょうか、ラストで観客をビックリさせる仕掛けがあると思ったから。東野圭吾の小説は文庫版のみ全部読みました。推理モノ、ファンタジーなどいろいろあるんだけど、共通する特徴は「ラスト10ページでビックリさせてくれる」ことなんです。巧妙に伏線を張っていて、最後に「あっ、そうだったのか!」と思わせる。もちろん『容疑者Xの献身』のトリックもそうなんだけど、映画では淡々と進んじゃって判り難いかも。逆に原作を知っている人にとっては、浮浪者がいなくなってた瞬間に伏線だとわかる。でもそれを判ったところで別に面白くない。僕の期待は「既読者もビックリするような仕掛けがきっとある」だった。
東野圭吾作品を好きな映画化するなら、まだ読んでいない人も、すでに読んだ人もビックリする仕掛けを用意して、その意味で東野イズムを踏襲すべきでしょう。石神が惚れていたのは実は娘のほうだった、とか、実は娘が最初から石神に手を貸していた、とか、原作を超えてもいいからビックリさせてほしかった。それがないから、淡々と原作をなぞるだけの映像化になってしまった。これがとても残念。
しかも、ストーリーが原作に忠実になっているかと思えば、石神は堤真一なんてカッコイイ男を持ってきちゃう。堤真一は好きな役者さんだけど、石神役は原作どおり、非モテ系の性格俳優がいいんです。オレとか(笑)。いや、そうだな、裸の大将で好演しているドランクドラゴンの塚地さんとか、田口浩正さんが適役だと思うんだ。田口さんおススメ。彼は"お人よしなデブ役"が多いけど、あの人の眼鏡の奥には知的な光がある。なんで彼にしなかったんだろう。
ストーリーを満遍なくなぞっただけだから、映画としての面白みはない。文句ばかり書いても無責任だから、自分なりのアイデアを書いておくと、いっそ誰か一人の視点に思いっきり寄っちゃったら面白かったんじゃないか。例えば花岡靖子の視点で、殺人を犯した驚きと恐怖、石神の申し出にすがりつつ、石神の意図を測りかねる恐怖。そして石神の純愛を受け止めるまでの心境の変化を追っていく。そうすると、ラストの号泣する場面で感情移入できたと思う。
あるいは石神視点でもいい。思慕、かなわぬ思い、殺人と言う悲劇に対して、それを花岡へ近づくチャンスだと思う邪心とそれへの迷い。この場合はトリックをすべて見せちゃうかもしれないけれど、その成功と失脚を描いて観客を誘えば観客をドキドキさせられる。そして彼女への思いが通じた瞬間、自分の策略が崩壊する。その矛盾。ここまでくれば、どうして石神が泣いたか判る。嬉しさと悔しさが同時に訪れて感情を制御できなくなったとき、始めて彼の知性は感情に負けちゃうんです。僕はこっちを観たい。
真実と友情の狭間に揺れる湯川視点でもいいし、今度ばかりは化学ではなく人情で解決してみせる内海視点でもいい。誰かに思いきり寄っちゃったほうがよかった。そうすれば、何年か後に、別の視点で再映画化ができたはず。原作は直木賞作品ですからね。ただのミステリーではなく、文芸的に評価されているわけで、映像化の成功は作り手の思い入れひとつなんだよね。
そこでスタッフを見ると、脚本は『HERO』や『救命救急24時』の福田靖氏、監督は『白い巨塔』や『美女か野獣』の西谷弘氏。かなり優秀なんですよ。福田氏はNHKで東野圭吾のトキオのドラマ脚本を担当しています。むしろ東野作品をわかってる人です。たぶん、この二人が作った当初のプロットに対して、わかってない偉い人が余計なことを言ったんだろうな。なんて邪推したりして。
そんなわけで、東野圭吾ファンはがっかりしちゃう映画です。まだ見ていないならレンタルDVDでいいんじゃないかな。その時は、映画公開前日に放送された2時間ドラマ『ガリレオΦ、エピソードゼロ』のDVD版を先に見ておきましょう。ラストが映画とリンクしています。この楽しみを拾っておかないと、他に楽しむところが少ないので。
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