すぎやまの日々

鉄道&Eスポーツライターの日常とか。

空手 (くうしゅ)

「いらっしゃいませ。こちらへ」
 カウンターに案内された。
 バーテンダーの目が、久しぶりですね、と言っていた。常連客に対して馴れ合わない。初見の客を特別扱いしない。そういう店だった。隣には若いカップルがいて、壁際のテーブル席には年寄りが談笑している。銀座の一等地にある老舗の名前が聞こえた。老人達はこのあたりの老舗の主たちだ。銀座というより新橋の外れのこの店は、昔から地元の客が多かった。

「ジントニック」
 ほとんどトニックウォーターではないか、と思うくらい、アルコールの薄いカクテルが出てきた。私が下戸であることを、まだ覚えていてくれた。
 隣のカップルが席を立ち、続いて老人達が大声で話しながら出て行った。耳が遠いから大声になる。しかし、元気な証拠でもある。この店はちっとも変わっていない。
 

「お元気そうで。えーと」バーテンダーがとぼけた顔をする。
「三木」
「そうでした。お顔は覚えていたんですが」
「このジントニックを覚えていてくれた。嬉しいよ」
「今日はお待ち合わせですか」
「いや、ひとりだ。おやじさん、いるかい」
「もうすぐ。最近は仕舞いの時だけなんです」
「そうか」

 ごゆっくりどうぞ、と言ってバーテンダーが下がった。名前を忘れられたくらいで残念がってはいけない。私も彼の名を知らないのだ。足繁く通った頃も、何度か同じやりとりをした。

 グラスを眺める。内側に張り付いた小さな泡が剥がれ、氷の隙間を上って表面で弾けた。ひとつ。ふたつ。泡の動きが静まるまで待って、私はようやくグラスを傾ける。喉に冷たいものが流れ、腹の奥で小さな火がつき、身体が温められていく。私の心の奥に沈んだもの。かつて暴れていたもの。そいつが目覚めるかどうか確かめていた。目覚めなければ、それでいい。目覚めさせないために、私は長い間酒を断っていた。

 ここに通っていた頃、私は広告業界の最前線にいた。私は競争に勝つことに夢中で、勝ったり負けたり、腹を立てたり笑ったりしながら道を切り開いてきた。古株に反抗し、付き合いや馴れ合い、媚び諂うスタイルは取らなかった。知識と戦略でクライアントを説得しつづけた。酒を飲ませ、女のいる店で商談をするという方法を私は嫌った。ご機嫌取りと接待で金を取るような仕事はしたくなかった。それは、広告する商品の開発者や、広告媒体を作るために努力する仲間を裏切ることになるからだ。

 良いものを、良い媒体で売る。それが正しい広告ビジネスだ。景気が良かったという事情はあったにせよ、私は実績で自分の正しさを証明してきた。退社して10年以上経ったが、私の売上記録はまだ破られてはいない。その当時、私自身が自分の実績を超えられなくなった。私は私の背中を追いつづけ、そして倒れた。白い部屋の寝台で目覚めるまで、私は夢を見ていた。私は長いロープを引きずって走っている。そのロープの長さの限界で足を取られた。もう前に進めない。目覚めたとき、私には何も残っていなかった。

 私は力のみなぎった世界を離れ、野心を捨て、穏やかな暮らしを選んだ。静かだった。あれほど苦しんだ喘息もまったく出なくなり、薬を持たずに出かけるようになった。知り合いから子犬を譲ってもらい、毎日、公園へ散歩に出かけた。仕事の用件でかつての同僚に会い、その話をすると、似合わないね、と笑われたものだ。

 穏やかな世界には、穏やかな仲間たちがいる。それはとても居心地の良い世界だ。信じられないことに、私は10年ぶりに恋をしていた。それはかつてのように、ピリピリと心を焼くような感情ではなかった。穏やかで、安らげる、何にも代えがたい時間。仕事の鬼だった私を知る人は仰天するだろう。今の私は、思いを寄せる人に会うことを何よりも優先していた。彼女のそばにいると安心できる。穏やかな自分でいられるのだ。それが嬉しい。若い頃、勝つために恋も友情も捨てた。しかし、いまは失いたくない人がいる。

「久しぶりだな」
「いやぁ、おやっさん、変わらないね」
「老けるばっかりだね。お前は若返ったんじゃないか」
「そうかな」
「ま、お前はもともと、スーツを着ると老けるタイプだ」
「自分でもそう思います」

 老店主がドアのカーテンを引いた。私はバーテンに2杯目を頼んだ。ラスティネイル。別れの酒、と私は思っていた。日本のロックの歌詞にこの酒の名が出てくる。強いリズムだが失恋の歌だった。女と別れたあと、私はいつもこれを飲んで潰れた。その中で、もっとも苦い思い出が蘇る。彼女と私は同じ夢を追っていた。忙しい時期が多く、向き合う時間は少なかった。共に走りつづけたかったが、彼女が先に力尽きた。

 男女平等社会とはいえ、ハードなビジネスになれば女性には限界がある。彼女は実力で成績を上げていたが、その活躍が広まると同時に、口汚い風評が追いかけてきた。それは主に、広告業界の古参のプレーヤーたちが影で囁いていた。私のやり方に封じられた負け組みが、彼女の足を引っ張っていた。私は心配したが、彼女はいつも笑って応えた。私はその笑顔に安堵していた。だが、突然、彼女は壊れた。何があったのか今もわからない。ただひとつだけ確かなことがある。彼女にとって私が必要な瞬間に、私はそこにいなかった。私はいつも彼女のそばで見守ってやるべきだった。

「一緒に住めばいいんだ」

 バーテンがこちらを見た。私は独り言を吐いたらしい。目をそらすと、彼はまた手を動かした。隣に老店主が座った。

「お前、まだ引きずってるのか」
「いや。なんで」
「ここでぶっ倒れたときと同じ眼してやがる」
「そりゃね、ここに来たら思い出しますよ」
「そうだな。だからめったに来なくなった」
「思い出すために来るってわけでは」
「心の中も例外じゃないぞ」
「なんですか、心の中」
「心の中の女だろうと、女といちゃつくときは」
「隣へいけ」
「そうだ」

 隣のブロックのホテルの1階にキャッツ&ドッグスというバーがある。そこはクラブのホステスと下心たっぷりの客でにぎわう店で、この店よりはずっと華やいだ雰囲気だ。いちゃつきたいならそっちへ行け、ひとりの時間を楽しむ客に迷惑だからな。それが老店主の口癖だ。

「で、どうだ。仕事は順調か」
「良く無かったですね。でも、やっと底を脱したって感じで」
「よかったじゃねぇか」

 退社後、私はフリーライターになった。記事を書きつつ、金が要るときはIT関連業種の日雇いに出る。金になるし、ライターの仕事に役立つ知識も得られるからだ。会社組織にしないかと言われることもある。そのほうが仕事を出しやすいそうだ。しかし、私は拒んだ。組織というものが嫌いだからだ。組織を作れば、組織を維持するための人が必要になる。仕事よりも組織作りが好きなやつが集まる。そしてやがて足の引っ張り合いになり、誰かが壊れる。もうたくさんだ。

「誘われたんですよ」
「女か」
「違いますよ。9時から5時までスーツを着る世界に」
「よかったじゃねぇか。でもいかねぇんだろ」

 迷っていた。私がライターとして追いつづけ、ライフワークとしていたテーマを発展させるために、会社を作ろうという話だった。組織は嫌いだ。しかし、今度の誘いは私の夢に近づく仕事だった。組織が嫌いでも、組織でなければできない仕事があり、それをやれる人間は世の中に数人しかいない。実際にはその倍以上の人材が必要だ。私がやらねば、という気負いもある。

「今の暮らしのほうが気に入ってるんですよ」
「じゃあ行くな」
「すべて、とはいかなくても、失うものも多い」
「じゃあ行くなって」
「でも、13年ぶりに、自分を試したい気もする」
「じゃあ行け。まったく、うじうじすんな。四十にして惑わずって知ってるか」

 老店主はそう言って立ち上がり、カウンターの中から私のグラスに酒を足した。透明な瓶だ。なんだろうと思いつつ、ひとくち放り込む。たちまち咳き込んだ。

「なんだこれ」
「そこらへんの強い酒を足してやった。こういうのをアフターバーナーって言うんだ」
「聞いたことないよ、そんなの」
「戦闘機にアフターバーナーってボタンがあるだろ。あそこを押すとドカンと前に出るんだ」
「……」
「飛べよ」
「……」
「迷ってるもの全部背負って飛べ。片方を取るなら片方は捨てるとか言うな」

 私はグラスを4回ほど傾けて飲み干した。かなりきつい。しかし、チビチビと煽れば説教が始まりそうだった。やっと飲み干し、氷が鼻を冷やしたとき、私は猛烈な眠気でカウンターに伏せた。BGMのジャズが終わり、雑音が聞こえた。老店主とバーテンが話している。覚えとけよ、暴れそうな奴がいたら、この方法で寝かしちまぇ。はい。

 くそっ。なんてひどい店だ。私は眠気に抗うように顔を横に向けて目を開いた。女がいた。不安げにこっちを見ている。なぜ君がいるんだろう。君にはまだこの店を教えてなかったはずだ。私は女へ向かって手を伸ばした。腕をつかもうとする。しかし、届かない。女の姿が遠くなる。手の届かないところへ行ってしまう。行かないでくれ。君は行かないでくれ。頼む。俺のそばにいてくれ。もうなにも失いたくない。

「一緒に住もうぜ。苦労するだろうが、俺が守ってやる」
 答はなかった。
 私の手は空を掴もうとしている。
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